お祝いのお花をいただきました。お礼のメッセージをTwitterで送ろうと思ったのですが、送信できない状態になっていました。ボクがなにかボタンを押し間違えたのか。設定があるのか。細かい理由はわからないけれど、いろいろと想像が膨らんでしまって、直接のメッセージではなくて、ふつうのつぶやきでお返事させていただきました。

 

気持ちのやり取りや意思の疎通って、今の時代はとても便利ですよね。すれ違いがほとんど起こらないのではないでしょうか。昔のことから想像してみるとですよ。まず古代は、伝言。文字の読み書きができるようになると、伝言板。その後は「文(ふみ)」。伝書鳩。矢文。飛脚。それから電信技術が発達すると、モールス信号。固定電話。そんな時代でも駅には「伝言板」があったり、館内放送などを活用して待ち合わせの連絡を取ったり。いよいよ携帯電話(衛星電話)も登場しますが、その前にポケベル。それからPHS。そして携帯電話。よーやくいまの時代のスマホなんかになるわけです。スマホといっても、eメールや携帯メールではなくて、LINEやSNSなどでの意思疎通がほとんどになりました。

 

「ロミオとジュリエット」のような「意思の疎通のすれ違い」は悲劇を生む装置として使われてしまいがちですが、知らなくていいこともあるだろうし、知らなかったからこそうまくいくこともあるでしょう。そのすれ違いを悲劇に使ったシェイクスピアはなにか自分でもそんな苦い経験があったのでしょうか。

 

現代は便利になったので、そんなすれ違いすらチェックできるようになりましたが、これがまた人間の心理を揺さぶるものになっているみたいです。その名は「既読スルー」。メッセージは届いた。一目しているはず。でも返事がない。(ただのしかばねのようだ。と続きたくなる。笑)

 

こう考えると、メッセージが届いたかどうかではなくて、メッセージが心に響いたかどうか、っていうことが大切なことなのかもしれない。そもそもの関係性もあるけれど、言葉や文章そのものよりも、思いが乗っているかどうか、に意味があるような気がしてきた。

 

 

言葉は、言葉にすると、言葉以上にも以下にもならない。

言葉にすると、言葉の枠を超えられない。

言葉にしたがために、失われてしまうものもある。

 

 

こう考えると、言葉は便利だけど、ときには窮屈になるときもある。

 

その続きを考えていたら、想いや気持ちを伝えるには「言葉」以外にも方法があることに気がつく。

 

 

プラーナでは、個装ティーバッグハーブティーをギフトに使ってもらうことが多い。自分が飲むためにというよりは、だれかのために。である。先日も、子供の部活でお世話になった先生が転勤になるので、そのお礼の品に。誕生日の友達に。出産祝いの手土産に。などなど。数に応じて、透明の袋でラッピングしたり、クラフト紙のボックスに入れたり。

 

こうやって、人は何かを与えて、なにかをもらって。そして生きているんだなぁと。

 

プラーナ9年目もなんとか続けていこうと思ったのでした。